そして、お見合い当日。
私は、この日のために祖父が用意してくれた着物に袖を通す。
鏡に映る艶やかな姿を眺めながら、ふっと息を吐いた。いかにも「極道の孫娘」って感じの黒い着物はやめてって言っておいてよかった。
あんなの着せられてたら、間違いなく泣いてた。でも、この着物は――悪くない。むしろ……素敵だ。
聞けば、これはレンタルらしいけど、質の高い代物だとわかる。
生地はとても滑らかで、肌に優しくなじむ。
華やかさの中にも品があり、女性らしさを引き立てる。 鮮やかな色合いなのに、しっとりと落ち着いた雰囲気を漂わせていた。青く晴れ渡る空を思わせる水色の生地に、蝶と花の模様が繊細に散りばめられている。
思わず見とれながら、心の中でつぶやく。
……おじいちゃん、なかなかセンスいいじゃん。
上品なイメージで、私の好みにピッタリ。少し驚きつつ、満足そうに微笑んだ。
「はい、できましたよ」
着付けを終えた先生が、ふんわりとした笑顔で私に声をかけた。
懐かしいその声に、振り返る。この先生は、昔、着付けを教えてくれた人だ。
祖父の要望で習い始めたものの、私にはあまりにも不向きで、すぐに挫折したっけ。
久しぶりに会った先生は、相変わらず丸くて柔らかな雰囲気のまま。
ふくよかで、笑うと目尻に優しいしわが寄るその顔は、変わっていない。「まあ、素敵だこと。よくお似合いですよ」
ほれぼれとした目で言われ、私はもう一度、鏡の中の自分に目をやる。
――確かに素敵だ。
艶やかな着物に包まれた自分は、まるで別人みたい。アップにまとめた髪に飾られた蝶と花の髪飾りも、着物によく合っている。
頭を動かすと、それがキラリと美しい輝きを放つ。
うーん……でも、やっぱり慣れないなあ。
なんだか私じゃないみたい。そんなことを思いながら、そっと髪飾りに手を添える。<
祖父がお見合い相手を迎えに行っている間、私は奥座敷で待機していた。 ごく普通の八畳間。 床の間に飾られてある掛け軸が豪華なところを除けば、特に変わったところのない、客間として使われている部屋だ。 その中心に、二つの座布団が対面するように並べられている。 私は、自分用の座布団にそっと腰を下ろした。 目の前にぽつんと置かれたもう一つの座布団が、なんだかやけに重々しく感じられる。 あそこに、お見合い相手が座るんだよね。 意識すればするほど、妙に心拍が速くなる。 ほんのちょっと前まで、形だけのことだって割り切っていたはずなのに。 き、緊張してきた。 ……あれ? でも普通、こういう時って座布団って四つじゃないの? 私と相手と、それからおじいちゃんと、相手方のおじいちゃん……。 そう疑問に思って周囲を見渡すけれど、やっぱり座布団は二つきり。 おかしいな。 首を傾げながら考え込んでいると、ふいに廊下の方から人の声が聞こえてきた。 その声がだんだんとこちらへ近づいてくる。 はっとして、私は考えるのをやめ、慌てて姿勢を正した。 襖の前に、ふっと人影が現れ、止まる。 来た。 ごくりと生唾を飲み込む。「入るぞ」 祖父の声と共に、襖が滑るように開かれた。 祖父がゆっくりと部屋に入ってくると、その後ろから一人の男性が入ってきた。「失礼します」 頭を下げる所作は丁寧で、無駄がない。 すらりとした細身のシルエットに、すっと伸びた背筋。 全体の印象は、柔らかいのに、芯が通っている感じがした。 ……思ってたのと違う。 品があって、どこか物静かそうな人。 その男性は、静かな足取りで私の正面に進むと、座布団の上にゆっくりと腰を下ろした。 そして、すっと顔を上げる。 その瞬間、なんとも言えない驚きを覚えた。 “祖父の親
その瞬間、大きな手がヘンリーの顔にかぶさった。「どけ」 龍の声が低く響き、ヘンリーは一瞬で横へ吹っ飛ぶ。 驚いて視線を動かすと、壁に上半身をめり込ませているヘンリーが、ピクピクと足を震わせていた。「……龍、ダメじゃない」 あきれ顔で龍を見ると、彼はまっすぐな視線で見つめ返してきた。 その瞳がゆらゆらと揺れている。 でも、しっかりと私を見ていた。 その熱を感じた瞬間、心臓がドクンと跳ねる。 そして、龍が静かに微笑んだ。「お嬢……綺麗です。 姿を見た瞬間、息が止まりました。あまりにも可憐で」 頬を染めながら顔を背け、大きな手で自分の顔を覆う龍。 普段は冷静な彼の、そんな姿に胸が高鳴る。「そんな素敵な姿を見合い相手に見せるのは癪ですが……なんとか耐えます」 そう言いながら向き直った彼は、苦しげな表情を浮かべていた。 ああ……。 大好きな人を、こんなに苦しめてまでお見合いをするなんて。 胸がぎゅっと締め付けられる。「龍……ごめんね」 俯いた瞬間、龍の手が私の頬に添えられ、優しく上を向かされた。「いいんですよ。だって、流華さんは私の女でしょう? 俺だけの――」 その言葉と眼差しに、私の心臓は壊れそうなほどバクバクと跳ね上がる。「も、もちろん。私は龍のものよ」 必死で平静を装って答えると、龍は満足げに微笑んだ。 その笑顔がまた格好よくて、顔が熱くなる。「……流華さん」「……龍」「もうそろそろ、いいかの?」 見つめ合う私たちのすぐそばから、祖父の声が聞こえた。「わあっ!」 また祖父の存在をすっかり忘れていた……! ふと視線を動かせば、着付けの先生も少し離れた場所で手持ち無沙汰に立っている。 そして、少し頬を染めながら、興味津々といった顔で私たちを見てい
そして、お見合い当日。 私は、この日のために祖父が用意してくれた着物に袖を通す。 鏡に映る艶やかな姿を眺めながら、ふっと息を吐いた。 いかにも「極道の孫娘」って感じの黒い着物はやめてって言っておいてよかった。 あんなの着せられてたら、間違いなく泣いてた。 でも、この着物は――悪くない。むしろ……素敵だ。 聞けば、これはレンタルらしいけど、質の高い代物だとわかる。 生地はとても滑らかで、肌に優しくなじむ。 華やかさの中にも品があり、女性らしさを引き立てる。 鮮やかな色合いなのに、しっとりと落ち着いた雰囲気を漂わせていた。 青く晴れ渡る空を思わせる水色の生地に、蝶と花の模様が繊細に散りばめられている。 思わず見とれながら、心の中でつぶやく。 ……おじいちゃん、なかなかセンスいいじゃん。 上品なイメージで、私の好みにピッタリ。 少し驚きつつ、満足そうに微笑んだ。「はい、できましたよ」 着付けを終えた先生が、ふんわりとした笑顔で私に声をかけた。 懐かしいその声に、振り返る。 この先生は、昔、着付けを教えてくれた人だ。 祖父の要望で習い始めたものの、私にはあまりにも不向きで、すぐに挫折したっけ。 久しぶりに会った先生は、相変わらず丸くて柔らかな雰囲気のまま。 ふくよかで、笑うと目尻に優しいしわが寄るその顔は、変わっていない。「まあ、素敵だこと。よくお似合いですよ」 ほれぼれとした目で言われ、私はもう一度、鏡の中の自分に目をやる。 ――確かに素敵だ。 艶やかな着物に包まれた自分は、まるで別人みたい。 アップにまとめた髪に飾られた蝶と花の髪飾りも、着物によく合っている。 頭を動かすと、それがキラリと美しい輝きを放つ。 うーん……でも、やっぱり慣れないなあ。 なんだか私じゃないみたい。 そんなことを思いながら、そっと髪飾りに手を添える。
「え!? 明日!?」「どういうことですか!?」 あまりにも突然のことに、私たちは同時に声を上げた。 さっきまでのしおらしさはどこへやら。 急に態度が変わった祖父に、驚きと戸惑いが押し寄せる。「ってことは……お見合いの話、もう決まってたってこと!?」 さっきの許しを請う姿は演技だったの? からかって、面白がってた? 私は目を吊り上げ、鼻息荒く祖父に詰め寄った。「おじいちゃん。どういうことかな? 説明してくれる?」 怒り心頭の私を前に、祖父はそっぽを向いて、肩をすくめた。「ほっほ……もう決まっていたんじゃ。 おまえたちなら、絶対にわしの言うことを聞き入れてくれると思ったから、先にOKしちゃった」 茶目っ気たっぷりに微笑む祖父。 その瞬間、私の中で、プチッと何かが切れた。「どういうことよっ!! 勝手に決めるなんて酷いじゃない! さっきの感動、返せーーー!!」 怒りに任せて祖父に飛びかかろうとする。 と、背後から龍が優しく私を羽交い締めにし、制止してきた。「お嬢、落ち着いてっ」「龍は腹が立たないの!? 私たちの意見も聞かず、勝手に決めてたんだよ?」 私が振り返ると、龍は一瞬だけ困った表情を浮かべ、苦笑いする。「それは……もちろん腹は立ちます。 でも、親父ならしそうだなって……。もう、慣れましたから」 どこか、あきらめようなその顔と声。 祖父の性格を誰よりもよく知る龍は、怒る気力すら失せたらしい。 でも、私は違う! 祖父の茶目っ気も、自由奔放さもわかってる。 そこがいいところだと思うときもある。 ……だけど、これは別! 人の人生を、弄ぶなんて——絶対に許せない!「おじいちゃんっ!」 威勢よく叫ぶと、祖父はおおげさにビクッと体を震わせ、怯えた振りをしてみせる。
先ほどから何も言葉を発しようとしない龍のことが気になり、私はそっと視線を動かした。 すると、悲しげに揺れる瞳とぶつかる。 龍は切なげな表情で私を見つめていた。「お嬢……」 その声は、いつになく沈んでいて、力がない。 私は改めて龍に向き直り、彼の手をぎゅっと握りしめた。 そして、動揺を隠し切れずにいるその瞳を、まっすぐに見据える。「龍、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい……。 でも、会うだけだから。ちゃんとお断りするから。 おじいちゃんの願いを、叶えてあげたいの……お願い」 そう言って、握った手に力を込めた。 それに反応するように、龍の瞳が細かく揺れる。 龍は、私の祖父への想いを理解してくれている。 きっと彼もまた、祖父の願いを叶えてあげたいという気持ちは同じなのだ。 けれど―― 龍の瞳は激しく揺らめき続けている。 彼の心の中で、いくつもの想いがせめぎ合っているのがわかった。「龍……私はあなたが好き。愛してる。 だから大丈夫。私を信じて」 ありったけの想いを込めて、私はもう一度、龍を見つめた。「……流華、さん」 龍が、久しぶりに名を呼んでくれる。 心臓が大きく跳ね、全身がふわっとあたたかくなる。 彼に名前を呼ばれると、どうしてこんなに嬉しいんだろう。 愛おしくて、胸がいっぱいになった。 しばし見つめ合ううちに、龍の硬かった表情がふっと緩んでいくのがわかった。「……わかりました。俺は、流華さんを信じています。 だから、大丈夫」 想いを隠すように、彼は静かに微笑んだ。 でも、隠しきれないもどかしさが、笑顔の奥ににじんでいる。「龍……ありがとうっ」 自分の気持ちを抑え、私の想いを尊重してくれた彼が愛おしくて。 体が勝手に動いていた。 そっと踵を上げ、龍へと近づく。
私がひとりで浮かれていると、祖父が困ったような顔で龍を見つめ、そしてふうっとため息をついた。「龍、すまんな……。 だが、その友人は、わしにとって大切な親友なんじゃ。無下にもできん。 ――流華よ、一度会うだけでも会ってみてはくれんか? もし嫌なら断ればいい。……頼む」 祖父は、懇願するような目を向け、軽く頭を下げてくる。「この通りじゃ」「おやめください!」「そうだよ、おじいちゃん、やめて!」 龍があわてて祖父の頭を上げようとする。 私も、思わず声を張り上げていた。 だけど、おじいちゃんがここまで頭を下げるなんて……。 胸が痛い。 おじいちゃんには、本当に感謝している。 両親が亡くなってからというもの、男手ひとつで私を育ててくれた。 誰よりも大切にしてくれて、たくさんの愛情をかけてくれた。 私はおじいちゃんに、頭が上がらない。 いつか、恩返しをしたいと思ってた。 それが、今なのかもしれない。 龍には申し訳ない気持ちでいっぱいだけど……。 祖父への想いが溢れてきてしまう。 そして、つい言ってしまった。「おじいちゃん……わかった。一回会うだけだよ」「お嬢!」 龍の悲痛な叫びに、胸がズキンと跳ねる。 うう……ごめんね、龍。 でも、もう言ってしまった。 祖父を喜ばせたいという気持ちも、本当だった。 私は龍の顔を見ることができなくて、祖父に向かって神妙に頷いた。 その瞬間、祖父の表情が一変する。 さっきまで曇っていた顔に、ぱあっと明るい光が差し込む。「本当か?」「……うん」 隣で、龍が小さく息を呑むのがわかった。 ごめん……今回だけだから。 おじいちゃんのため、だから。 やっとの思いで龍の方へ視線を向けると、 そこには、放心したように前を